内閣官房長官
2000年10月に森内閣で、辞任した中川秀直に代わって内閣官房長官に就任する。当時の森派会長・小泉純一郎が「本人の能力、人間性、人格などすべてを勘案し、今の時点で一番適任」[3]、と考え推薦した。推挙閣僚経験が皆無であったにも関わらず、森内閣で官房長官に起用されたことに疑問の声も上がったが、無難に調整役をつとめた。森内閣においては首相の失言の弁明に追われることも多く、「弁明長官」と呼ばれた。
その後小泉内閣では2度にわたる内閣改造でも留任。 在任期間が延びるにつれ、首相に直言できる女房役としての存在感は次第に増していくことになった。
実務能力には定評があり、官邸主導の政治体制が確立していく中で、政府各省や与党との調整に力を発揮した上、本来の得意分野である外交における存在感も徐々に増していった。小泉内閣では、外務大臣田中眞紀子と外務省官僚との軋轢を巡る騒動の中で外務省が機能不全に陥った時は、大臣の頭越しに自ら外務省事務方への指示を行った。そのため、外務官僚が外務大臣よりもまず官邸に赴くことが常態化したため、「影の外務大臣」などと囁かれた。福田自身は「影の外相、影の防衛庁長官。いろいろ名前はありますが、まあ、しょせん影ですから」などと語っていた[3]。
田中外相退任後は民間人閣僚だったために与党内に基盤を持たなかった後任の川口順子の時代になっても外交への関与は続き、退任まで官邸外交を取り仕切ることになった。
2004年4月、内閣官房長官の在任記録が1259日となり、歴代の記録を更新する。
4月28日に「(国民年金保険料を払っているか否かの公表は)個人情報でそういうものを開示すべきではない」、「犯罪ですか?」云々との旨の本人発言直後に、国民年金保険料の未払が発覚する。当初未払期間は、1990年2月から1992年9月の間と、1995年8月から1995年12月までの間の合計3年1ヶ月間となっていたが、辞任直前、週刊文春が1976年11月から1990年2月までの間の内の、5年8ヶ月間も同じく未納であったことを報じた。
その後小泉内閣では2度にわたる内閣改造でも留任。 在任期間が延びるにつれ、首相に直言できる女房役としての存在感は次第に増していくことになった。
実務能力には定評があり、官邸主導の政治体制が確立していく中で、政府各省や与党との調整に力を発揮した上、本来の得意分野である外交における存在感も徐々に増していった。小泉内閣では、外務大臣田中眞紀子と外務省官僚との軋轢を巡る騒動の中で外務省が機能不全に陥った時は、大臣の頭越しに自ら外務省事務方への指示を行った。そのため、外務官僚が外務大臣よりもまず官邸に赴くことが常態化したため、「影の外務大臣」などと囁かれた。福田自身は「影の外相、影の防衛庁長官。いろいろ名前はありますが、まあ、しょせん影ですから」などと語っていた[3]。
田中外相退任後は民間人閣僚だったために与党内に基盤を持たなかった後任の川口順子の時代になっても外交への関与は続き、退任まで官邸外交を取り仕切ることになった。
2004年4月、内閣官房長官の在任記録が1259日となり、歴代の記録を更新する。
4月28日に「(国民年金保険料を払っているか否かの公表は)個人情報でそういうものを開示すべきではない」、「犯罪ですか?」云々との旨の本人発言直後に、国民年金保険料の未払が発覚する。当初未払期間は、1990年2月から1992年9月の間と、1995年8月から1995年12月までの間の合計3年1ヶ月間となっていたが、辞任直前、週刊文春が1976年11月から1990年2月までの間の内の、5年8ヶ月間も同じく未納であったことを報じた。

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